飯豊連峰 杁差岳・門内岳

2024/7/13(土)-14(日)

「最果て」という言葉が好きだ。飯豊の「最果て」はどこだろう。それはやはり朳差岳なのだろう。朳差岳から北へ伸びる尾根で飯豊の主稜線は終わる。

6年前の初秋に、大学のワンダーフォーゲル部で飯豊連峰の主稜線の踏破に挑んだ。最終日の天候が悪く、地神山を越えたあたりで朳差岳を諦めることにして、飯豊山荘に下山した。その時、地神山から拝んだ朳差岳のピークは、小さな旅のゴールテープを切るのにふさわしい、RPGの最終到達地のような雰囲気を感じた。ただ、あの時エブリを眺めながら下山してしまったことがなんだかんだ心残りになっていて、右膝の抜釘手術を受ける前に訪れることにした。

深夜に奥胎内ヒュッテの駐車場へ向かい、車中泊した後、バスで足ノ松尾根の登山口まで運んでもらう。緑に覆われた静かな森を歩き始める。ブナが林立する平原状に道が続く。熊鈴の音がいくつか響く。意外と登山者は多いようだ。尾根に取り付くと、左手には飯豊の銘溪、足ノ松沢が深く飯豊の山を抉っている。

足ノ松沢

眠りが浅かったのか、登り始めは吐き気がして気分が悪かったが、足元を回転させているうちに次第に回復していった。柔らかな朝日が緑のブナの森を照らす。1100mあたりで一度休憩を取り、羊羹を頬張った。このあたりのブナ林はとても爽やかだ。

爽やかなブナ林

大石山に近付くにつれ段々と視界が開けるが、気温も段々高くなってくるので汗が流れる。足元の高山植物に目を向けたりしながら脚をひたすら動かしていくと、ちょっとした丘みたいな大石山のピークに出た。あの日、先に進むことができなかった飯豊の主稜線に立っている。なかなか感慨深い。

ヤマハハコ

大石山から仰ぎ見る朳差岳は壮観だ。雪に覆われた時期も素晴らしいだろうし、秋の時期もきっと素晴らしいだろう。まずはスキーを履いて訪れてみたい。まだ登ってすらいないのに、そんなことを考えた。

朳差岳が壮観だ

朳差岳まではアップダウンの連続だ。まずは鉾立峰とのコルまで150m程度下り、再び150m登り返して鉾立峰のピークへ上がる。そこからまた100m程度下って、朳差岳へ登っていく。朳差岳の直下はニッコウキスゲが今にも咲き乱れんとばかりに満開の時を待っていた。その隙間で風に吹かれるマツムシソウの薄紫に、盛夏の訪れを感じる。朳差岳の避難小屋の前でチェック柄の老人と言葉を交わすと、今年はニッコウキスゲが少ないとのことだった。

マツムシソウ

朳差岳の頂上はアキアカネが乱れ飛んでいた。振り返ると、登ってきた道はガスに巻かれている。目的地に着いたとたんガスが上がってくるなんて、やっぱり僕は雨男なのだなあと少しばかり落ち込みながら、羊羹を頬張ってアキアカネの行く先を見守る。

朳差岳に立つ
ガスった…

さて、長居していても仕方がない。来た道を戻って今日の幕営地である頼母木小屋を目指す。鉾立峰に戻ったころにはすっかりガスが晴れていた。よくあることだ。
大石山から先は緩やかな登りで歩きやすい。振り返れば朳差岳の穏やかな山容に癒される。朳差岳といえばハクサンイチゲの大群落が有名だが、もう旬はとっくに過ぎたというのに、登山道の脇に生き残りの小さな集団を見つけた。おおよそ2ヶ月も遅刻しているだろう。なんてルーズな奴らだ。

鉾立峰から地神山方面
怠惰なハクサンイチゲ

この日の幕営地、頼母木小屋に到着すると、もうテントを張れるスペースが全くなかった。あれ、飯豊ってこんなに人多いのか…。とにかく想定外だ。避難小屋の中を覗いてみると、あれれ、こっちは余裕で泊まれそうだ。1,000円多く払って、避難小屋に泊まることにした。「飯豊のオアシス」の愛称よろしく、小屋の脇に設置された流しからは水がジョバジョバ出ている。小屋の中で出会った高齢のご夫婦が、イイデリンドウの情報を教えてくれた。どうやらこの小屋の横のピーク、頼母木山のあたりで咲いているようだ。イイデリンドウは今回のメインディッシュだったので、非常に助かった。少し早いが、日没前から夕飯の鳥鍋を作って満腹になったところで、夕日を見ようと外に出た。少し頼母木山の方へ登って、小高い台地から景色を眺める。おぼろげな夕日が朳差岳の向こう側へ沈んでいく。真っ赤な夕焼けは奇麗だが、くすんだ夕焼けも雅で良い。小屋に戻ると、ご夫婦が家で作っているという梅酒をグイグイ飲まされ、良い感じにお酒が回ってぐっすりと寝た。

今日も日が沈む

翌日は3時に起床して、日が昇る前に小屋を出た。頼母木山から地神山へ向かう途中で日が昇ってきた。昨日と同じようなおぼろげな朝焼けだ。地神山を乗っ越すと門内岳が稜線の向こうにひょっこり顔を出している。早朝の稜線歩きはとても気持ちがいい。早起きは苦手だが、朝しか感じることのできない何とも言えない爽やかな空気感がある。門内小屋の手前では生き残りのヒメサユリが存在を主張していた。この数年でヒメサユリもだいぶ親しみのある花に変わった。まったく、どこで咲いていても可憐な花である。

今日も日が昇る
美しい稜線だ
ヒメサユリ

門内岳の山頂には赤い鳥居がある。地神山からは6年前に一応歩いたことがある道なので、なんとなく見覚えがある。南方向には北俣岳が存在感を放っている。石転ビ沢と門内沢の源頭部を観察したが、斜度がありシール登高に難儀しそうだ。計画では北俣岳まで行くつもりだったのだが、天気予報を見るとどうやらお昼ごろから一雨来そう。キリがいいのでここまでとして、さっさと奥胎内ヒュッテまで下山してしまうことにした。

門内岳から北俣岳を望む

さて、雨が降るといえど、帰りは大して先を急ぐ必要などない。のんびりと足元を見ながら、イイデリンドウを探すこととする。小屋で会ったご夫婦は、頼母木山の周辺で咲いていると言っていたが…。あった。頼母木山に近づくと、足元にちんまりと青い花を付けていた。かわいらしさと秩序が同居する、といったところだろうか、とにかく素敵なお花だ。

イイデリンドウ
イイデリンドウ

イイデリンドウを愛でながら歩みを進めて頼母木小屋に戻ってくると、まだ朝の8時前だった。せっかくなのでゆっくりと休憩を取る。だいぶ朝早く出てしまったので、日の出とともに味わえなかったまどろみの時間だ。いい雰囲気になりたくてコーヒーを沸かしたが、少しずつ気温も高くなってきて、出来上がった頃にはやっぱりジュースでも買えばよかったと、少々後悔した。

あとは奥胎内ヒュッテに向かってひたすら下山するのみである。大石山で飯豊の主稜線に名残惜しみながら別れを告げて、足ノ松尾根を下る。みるみるうちに気温が上がってきて、身体中から汗が噴き出してきた。大きなブナの木にタッチしながら、緑の尾根を駆け下る。やがて行きに見たブナの平原が現れて、あっという間に登山口に着いてしまった。あとは退屈な車道歩きをこなすだけだ。下山して荷物を車に押し込んだあと、ひとまずコーラを流し込み、奥胎内ヒュッテのお風呂に転がり込んだ。

朳差岳、あの日諦めたピークを踏めて良かった。そして、飯豊というこの奥深い山域の、奥深い魅力に、僕はだいぶ取り付かれてしまったようだ。僕は飯豊のことをまだあまり知らない。王道だが、次はハクサンイチゲが咲き乱れる時期にでも再訪しようかと思う。

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-7023324.html

南会津 実川矢櫃沢~大丈田代~山犬田代~七兵衛田代

2024/6/16(日)-17(月)

七入で檜枝岐川から南へ分岐する実川周辺の地形図を眺めていると、実川の右岸に3つの田代が存在していることがわかる。奥深い帝釈山地と、煌びやかな檜枝岐の山々に挟まれた不遇の地にあることにより、皆から忘れられているその田代三兄弟の名は、北から大丈田代、山犬田代、七兵衛田代である。以前からこの三兄弟に如何にしてスキーで訪れようかと、様々なルートを妄想していたのだが、今回ゴックン氏と初夏の植物観察会をするにあたって、沢から訪れてみよう、ということになった。

七入から実川沿いの林道を小一時間歩くところから始まる。さっそくゴックン氏は対象の植物を見つけたようで、林道の脇の藪を分け入って、二人して観察会をする。割と寄り道をしたが、それでもおおよそ1時間ほどで大丈田代へ詰め上げる矢櫃沢の出合に着いた。

さっそく入渓する。新緑が美しく、容易に登れる滝が連続する小気味良い沢だ。小滝に手をかざすと、自らに向かって飛び散ってくる水飛沫がなんとも気持ちいい。冷たい沢の水を浴びても心地よく思えてしまうこの感情、ああ、大好きな夏がやってきたのだ。

入渓

沢にはこれといった難所はなくグイグイ進める。花崗岩で明るい檜枝岐の山々の沢とは異なり、こちらは新第三紀の泥岩や火成岩のダークな雰囲気を醸し出す地層の上に、下草が生い茂っているような様相で、会津駒ヶ岳や三岩岳というより、帝釈山地の雰囲気の方が近い。しかしながら、決して暗い雰囲気というわけではなく、寧ろ瑞々しい新緑に太陽光が反射して明るい雰囲気を感じさせる。

小滝を登る

やがて沢形が狭まってきて、両岸のチシマザサが段々と近づいてきた。熊でも出てきそうな雰囲気だが、気にしないことにする。チシマザサにちょっかいを出しながら進んでいくと、良い感じの幕営適地を見つけてしまった。この先に進むと水が取れなくなる可能性もあるし、少し早いがここで泊まることにした。

ここをキャンプ地とする

整地してタープとテントを張り、薪集めをする。一通りの準備を終え、大丈田代へ散歩することにした。沢を詰めていくと、ものの5分で開けた湿原に出た。想像より秩序ある湿原だ。もうすこし泥塗れになりそうな、沼みたいな湿原を想定していたのだが、何ならここで野球でもできそうなくらいだ。ワタスゲが儚げに揺れている。かわいらしいタテヤマリンドウの花があちこちで咲いている。前方後円墳みたいな長須ヶ玉山に見守られ、湿原をふらふらと右往左往する。

ワタスゲが揺れる
野球場のようだ

散策を楽しみ、タープの下に戻ってくると大粒の雨が降ってきた。大丈田代から先の沢状地形はどう見ても水が枯れていそうだったし、どうやらここで泊まることにしたのは正解だったようだ。あらかじめタープの下に取り込んでいた薪を集めて焚火を起こす。ネマガリタケを米と一緒にコッヘルにぶち込み、檜枝岐の道の駅で買った焼肉のタレで味付けをして炊き込みご飯を作ったが、これが大正解でアホみたいに美味い。他にもお約束のデカい肉を焼いたり、ポテチをつまみにウイスキーを飲んだりしながら、少しずつ暗くなる辺りをぼんやりと眺めていた。

焚き火の前で

朝、目が覚めると辺りはすでに明るくなり始めていた。再び焚き火を起こして、朝のまどろみの中でのんびりと時間を浪費する。なに、そんなに急がなくてもいいじゃないか。今日の行程は大して長くない。ボサ沢を通って田代を3つ見て、最後は林道を通って帰るだけじゃないか。

朝の時間

なんて言って余裕をぶっこいていたら、出発が9時近くになってしまった。昨日の行動開始時間とさほど変わらないじゃないか。

昨日訪れた大丈田代に、もう一度足を踏み入れる。午前中の光に照らされた大丈田代は、なんだか昨日と違って元気いっぱいに見える。いや、別に昨日の午後の大丈田代が元気なかったわけではなくて、あくまで感覚の話だ。とにかく少し時間帯を変えるだけで、まったく表情が違って見えるのだから、山は面白い。まあ、人間も同じようなものか。

大丈田代 Re;
コツマトリソウ

大丈田代から沢状地形を詰め、コルから1度下って、日本庭園みたいな小沢を詰めると山犬田代だ。山犬田代に詰め上がる小沢までは、背丈より高いチシマザサの藪漕ぎになる。掻き分け掻き分け、途中でタケノコを拾ったりする。

山犬田代が見えた

山犬田代は、気まぐれな宇宙人がレーザーでも打ったような、山の中にぽっかり空いたかわいらしい湿原だった。おそらく「山丈」田代の誤字なのだろうが、「山犬」などというなんともかわいらしい響きが、この湿原のかわいらしさを際立たせている気がする。

山犬競走

山犬田代から斜面を少し上ると、今回の最終目的地である七兵衛田代はすぐだった。馬の蹄みたいな形をした水たまりが出迎えてくれた。湿原の先の山は孫兵衛山だろう。タテヤマリンドウのお花畑になっていて、今回のちょっとした冒険譚の最終章を飾るのにはふさわしい場所だ。ふと目を凝らすと、提灯みたいなヒメシャクナゲが咲いていた。モウセンゴケもいる。湿原のど真ん中にラスボスのドラゴンでも立っていれば面白い。もしかしたら湿原の入口の水たまりは、火を噴くドラゴンの足跡だったのだろうか。くだらない妄想をしてみた。とにかくここにドラゴンはいない。ここにあるのは目の前の湿原と、孫兵衛山と、僕たちだけだ。奥まで行ったり来たりして、七兵衛田代を堪能する。

ドラゴンの足跡
七兵衛田代と孫兵衛山
タテヤマリンドウ
モウセンゴケ

七兵衛田代の奥から、サンショウウオと戯れながら実川の支流を下る。思ったより渓相の明るい沢だ。そういえばこのあたりの沢は、アクセスの悪さのわりに記録を見るような気がする。目の前にデカい黒い影がヌッと現れて、大きなカモシカがこちらを見ながら微動だにせず固まっていたときは、流石にちょっとびっくりした。

明るい沢だ

実川の本流とぶつかるあたりで、大きな滝に行く手を阻まれた。懸垂してゴルジュを突破する気なんてさらさらないので、適当に斜面を登って実川沿いの林道を目指す。この出合には左岸の岩盤の上に特徴的な松の木の大木があった。なんでこんなところに生えて、なんでこんなに育ったのか不思議だが、とりあえずこの木の下で記念撮影をした。

記念撮影

あとは実川の林道をひたすら歩くのみだ。ゴックン氏にアニメを布教したり、山の話などをしながら退屈な林道歩きをこなす。途中、ゴックン氏が藪にいきなり石を投げ込み、「熊だ!」とか言い始めた時は素直にビビってしまった。

檜枝岐の道の駅でインコと戯れ、山行で大活躍した焼肉のタレを買って宇都宮へ帰った。

例のタレ

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6941412.html

燧ヶ岳

2024/5/4(土)

先週の会津駒ヶ岳から眺めた燧ヶ岳はまだ雪がつながってそうだった。本来はGWなんて長く山に入りたいところなのだが、一週間後に海外旅行を控えていることもあって、軽めの山にすることにした。というわけで、初夏の陽気のなか、燧ヶ岳へ向かう。

早朝に御池の駐車場を出る。会津駒では600m担ぎ上げさせられたが、燧は下から雪がつながっている。GWということもあって周りの登山者も多い。だだっ広い広沢田代からは、夏道沿いに登っていく登山者の群れを避けるように東側に迂回し、尾根状地形をダラダラと登っていく。熊沢田代に出ると、目の前の燧ヶ岳がいっそう大きく見えた。

熊沢田代を越えるとやがて急登になる。最後はスキーを担いで爼嵓の山頂に出た。尾瀬沼の眺めが良い。尾瀬に向かって滑ろうと考えていたが、どうやら下まで繋がってなさそう。硫黄沢の源頭部をちょこっと滑って登り返すことにした。出だしは急だが快適なザラメ雪だ。200mくらい標高を落としてスキーを脱ぐ。燧ヶ岳のピークを眺めながら大休止とする。

滑ってきた斜面

さて、落ち着いたら再び俎嵓に登り返す。もはや初夏の陽気で半袖でも汗が流れる。登り返し、尾瀬ヶ原を眺めてから下山する。縦横無尽のトレースで雪面はボコボコになっており、滑走というよりスキーで下山するという感じだ。熊沢田代から眺める平ヶ岳はまさしく「平」ヶ岳で、言い当て妙である。

平ヶ岳を眺める

最後まで雪はつながっていた。檜枝岐に下りるとまだだいぶ明るい時間だったので、集落を散歩してから宇都宮に帰った。

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6751481.html

会津駒ヶ岳

2024/4/26(金)

今シーズンは何度も言い訳して会津駒ヶ岳へ行かなかった。モゴモゴしているうちにいつのまにかGWが来そうな日付になってしまっていた。流石にシーズンに一度は訪れておきたかったので、まだら模様の衣装を羽織った女王のもとへ、小田原攻めに遅参した伊達政宗のごとく馳せ参じた。

檜枝岐に来ると、朝だというのにもう暖かい。会津駒ヶ岳の登山口の林道の入り口には雪なんて全くなかった。しばらくは担ぎだろうか。この日の午後一番に開通する林道を、スキーを担いでトボトボと歩く。林道の脇のこごみはだいぶ成長して、葉が開きまくりである。この陽気は春爛漫といったところだろうか、暑くてたまらずフリースを脱ぎ、会津駒ヶ岳の登山口の階段の前に着いた頃にはもう既に半袖になった。

さあ行こう

今年は根雪になる雪があまり降らなかったせいか、登山口にも当然のように雪がない。予想できていたことだし、ダラダラとスキーを担いで登っていく。結局、雪がつながり始めたのは水場の手前だった。おおよそ600m程度は担がされたのだろうか。まったく、サボった自分が悪いのだが。ここからスキーを履いていく。スキーを履いてしまえば快適極まりない。しかし暑い。夏みたいな装いの僕を尻目に、まだ雪を纏った燧ヶ岳が前方に目立つ。まだ下まで雪もつながっていそうだし、来週あたり行ってみるとしよう。

燧ヶ岳

ダラダラ歩いていると視界が開けてきた。右手に大戸沢岳への穏やかな稜線が見えて、いつの間にか山頂が近づいている。駒の小屋の前の斜面を登って、ザックに腰かけて休憩を取る。メルヘンで穏やかな風景だ。再び立ち上がって、会津駒ヶ岳へのメルヘン街道を進む。時たま吹く風が肌を触る感覚が心地よい。

駒の小屋から駒ヶ岳のピーク

山頂まではすぐだった。平日だが数パーティーが登っていたようだ。百名山だし、GW前だし、そりゃ人はいるか。中門岳へ脚を延ばすほどやる気はなく、会津朝日岳を眺めて、のんびりとお湯を沸かして昼食を食べる。良い時間だ。

山頂より

しばらく休憩して、滑り始める。山頂直下の斜面は良いザラメで、軽快にテレマークターンが決まった。沢は落とさず、今日は尾根を忠実に戻る。標高を下げるにつれて段々雪が腐ってきて、行きより少し手前で雪が途切れた。確かに朝より少しだけ季節が進んでいる。登山道は雪解け水でちょっとした水路のようになっていた。

雪解けの登山道

コブシの花がちらほらと咲く登山道を、スキーを担いで下りていく。林道に下りると、登山口への林道が開通していた。下界も少し季節が進んだようだ。

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6697894.html

南会津 只見川右岸 白沢川右俣~大川入沢

2023/11/9(木)-10(金)

秋も更け、宇都宮の端っこも落葉が目立ち始めた。外の空気が肌寒くなってきて、日常の風景が少しずつ殺風景になっていくこの季節は、なんだか少し寂しげだ。さて、僕はそんな季節に今年の沢初めをすることになった。なお、今年のわらじ納めである。

今日は相棒のゴックン氏の車で行く。田島のスーパーで買い出しをして、ゴックン氏がなぜか道を間違えたりしているうちに、入渓時間が正午を回ってしまった。小春日和の中、少し冷たい沢の中に入る。

小春日和

沢の中はなんてことないボサ沢だ。下部は人間の手が入るのか、右岸に林道が走っており、植林された針葉樹林が続く。なんてことはない、田舎に流れているその辺の沢、という感じである。
ケンチュウ沢との出合が近付くとだんだんと周りの植生が変わり、トチノキやサワグルミが増えていく。菌類も多く、都度観察しながら進んでいく。

寂しげな沢の中
広葉樹林になった

途中、沢の中の大きな石に熊の痕跡を見つけた。その数分後に、ゴックン氏が突如「熊だ!」と叫んでダッシュし始めたが、そのドッキリは予想できていたので乗らなかった。
進んでいくと大きなトチノキを見つけて、各自記念撮影タイムとする。きっとこのあたりのヌシだろう。トチノキの対岸に極上のテン場を見つけて、ここを今日の宿とする。

トチノキ
本日の宿
芋煮会をした

翌日は普通に寝坊した。焚き火を起していると、下流の方からテンがヒョコヒョコ歩いてきて、僕たちのほうを見て数秒固まった後、尾根状の斜面を飛ぶように駆け上がっていった。斜面を駆け上がりながらも、何度か立ち止まってこっちを見ている。きっとこんなところに人間がいるなんて思ってなかっただろうから、驚くのも仕方ない。
10時すぎに出発する。ボサ沢が続く。頭上からホオノキの大きな落ち葉がヒラヒラ降ってきて、晩秋の寂しげな雰囲気を醸し出す。白沢山のピークを踏むのは止めにして、右俣を詰めてコルから大川入沢に下降することにした。右俣に入るとやがて水は枯れて、最後は緩い草付きをよじ登ってコルに上がった。

ボサ沢が続く
コルに上がった

スラブっぽい斜面をシリセードでズリズリ下って大川入沢に降り立つ。順調に下っていくと、ゴックン氏が突然叫び声をあげたので、「なんだよまたドッキリかよ」と思って振り返ると、全くドッキリではなく、丸太橋のような大きな倒木に菌類がビッシリと生えていた。ここまでの群生は初めてだったので、僕も歓声をあげて、しばし観察する。

やがてしとしと雨が降り始め、結構寒い。途中沢がカーブした出会い頭にデカい鹿の亡骸があり、びっくりして叫んでしまった。ゴックン氏はドッキリの仕返しだと思っていたようだが、亡骸を見て「これはビビりますわw」とほざいていた。手を合わせて先に進む。

やがて右岸に林道が現れ、林道を伝って下っていくと会津越川駅の裏に出た。デポしたチャリを漕いで車に戻ろうと思ったら、ゴックン氏が「僕が漕ぎますわ!」と言って凄まじい速度で消えていった。まあ3,40分はかかるだろうと思って、辺りの稲叢を眺めたり、たまたま来た汽車に挨拶したり、近くの神社を散策していると、予想より早くゴックン氏が帰ってきた。「荷解きもせず何してるんすか」と言われ、返す言葉もなかった。

会津越川駅

帰りは八町温泉に寄って、地元のおっちゃんと高田梅と菊芋の郷土料理について話し込み、宇都宮に帰った。ちなみに、おっちゃんの話は六割くらい何言ってるのか聞き取れなかった。

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6164803.html

田代山・帝釈山

2023/8/27(日)

中学生のころ、社会の授業になると、授業そっちのけで地図帳を開いて眺めていた。交通手段が自転車と鉄道に限られていたあの頃、この「帝釈山地」には一体どうやったら辿り着けるのだろうかと思案し、得体の知れない秘境として一種の憧れがあった。その後、日本には地形的に辿り着くことが困難な本当の「秘境」が存在することは、山という文化と触れあっていくうちに自ずと理解していくのだが、今でも地形図でこのあたりを眺めていると、僅かながら少年の頃の憧れに似た気持ちが思い出される。

さて、前十字靭帯再建手術から4か月と少し経った。お医者様によるとだいぶ経過は順調らしい。術後3か月で軽いハイキングが許可された。僕の中では少し不安があったので、トレーニングを重ね、ある程度目途がついたタイミングで、リハビリで田代山と帝釈山を訪れることにした。かつての秘境をリハビリに使ってしまうのは、なんだか少し寂しい気持ちになったりもする。

ダートの林道を小一時間車で走ると、田代山へ程近い猿倉登山口に着く。登山道はしっかり整備されていて歩きやすい。朝の森を歩いていく。右膝の調子も良さそうだ。
小一時間登ると小さな田代に出た。ここはまだ山頂ではないが、気持ちの良い場所だ。牧歌的な湿原が朝のそよ風に揺れる。晩夏の寂しげな風と、目の前の爽やかな景色のギャップが良い。

森の中を行く
小田代

小田代から20分程度登ると田代山の山頂だ。名前のとおり、山頂は広大な湿原になっている。湿原の向こうに緑の壁のような檜枝岐の山々が見えた。

田代山

田代山の避難小屋で少し休憩して、帝釈山へ向かう。針葉樹林の中を縫って歩いていくと、程なくして帝釈山の山頂だ。残念ながらガスに巻かれていたが、あの頃の地図帳の中の秘境にいるのだと思うとなんだか感慨深い。

帝釈山
針葉樹林のトレイル

栃木県側から雲がもくもくと上がってきていたので、急ぎ気味に登山道を戻る。田代山湿原に戻ると、足元にアキノキリンソウが咲いていることが分かった。山の季節の移ろいは早い。下界はうだるような灼熱でも、山の上は確かに秋の足音が聞こえてくる。

再び田代山湿原

登山口近くまで下ると、若いツキノワグマが一頭、倒木と戯れていた。僕の姿を見て一目散に藪に消えていった。距離が近かったので驚いたが、夏休み明けの挨拶に来たと思うと、なんだかかわいらしい。

ヤマドリと挨拶を交わして林道を車で下る。会津西街道を走っていると、湯西川のあたりで雷雨になった。早く下りてきて正解だったようだ。

ヤマドリ

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5875169.html

右膝前十字靭帯損傷・半月板損傷を負って② 穴馬センセーション

僕は競馬が好きだ。競馬には夢がある。別にギャンブル依存症に陥っているわけじゃない。競馬新聞を穴が開くほど見つめて、穴馬に賭けて馬券が当たったときなんて最高だ。脳汁がドバドバ出てくる。

おおよそ、勝つ見込みの少ない穴馬の馬券を買うときは、買うときは「当たったらラッキーだな」「配当跳ねるといいな」みたいな、外れたらドンマイみたいなノリで馬券を買うのだが、その数分後には得体の知れない確信のような感情が湧いてくるのだから不思議である。このときばかりは、楽観的思考に脳を支配されたゾンビと化す。ファンファーレが鳴るや否やグリーンチャンネルに釘付けになりながら対象の番号のゼッケンを付けた馬を食い入るように見守り、ほとんどの場合4コーナーで伸びあぐねて僕は頭を抱えることになる。

何が言いたいかって、MRIの診断結果を待つ僕の感情を言いたいのである。僕は極めて楽観的になり、「剥離骨折で済んでるでしょ」なんて、得体の知れない確信に脳みそを焼かれた夢遊病者と化していた。

まあ、翌日にはMRIの診断結果が分かって、映像がプリントされた診断用紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り投げたのは言うまでもない。まるでWINSで外れ馬券をゴミ箱に投げ捨てるような勢いで。まあ、流石に考え直して、ゴミ箱を漁って診断用紙を手元に戻したのだが。

前十字切っちゃった

というわけで、僕の前十字靱帯はしっかり断裂していた。しかも半月板損傷のおまけ付きである。なんか紙を見ると、剥離骨折に加えて大腿骨の骨挫傷、あとは水も溜まっているらしい。まあ、考えても無駄無駄。とにかくヤバいってことだ。

僕はそれなりにプロ野球を見ている。プロ野球を見ていると、毎年どこかの球団で誰かしらが前十字を切って、新聞の見出しに「今季絶望」の文字が躍っている。要するに今季絶望くらいの大怪我ってわけだ。ネットでググったら手術してから競技復帰まで8~10ヶ月なんて書いてあった。

ちなみに、前十字靭帯再建術とは、膝の裏の靭帯を取ってきて、前十字靭帯に移植する手術である。野球好きな人には馴染み深いかもしれないが、多分トミージョン手術と似たようなものだ。お医者様に聞いてみると、前十字靭帯の周辺は血液のめぐりが悪いため、自然治癒することはほぼなく、膝の裏の人体は復活するらしい。なんだそりゃ。

とにかく、僕の膝は手術が必要だということだ。飛び込みでお世話になった整形外科の先生に、宇都宮で一番でっかい病院である済生会宇都宮病院への紹介状を書いてもらって、さっそく済生会に行ってきた。3月16日、いつの間にか怪我してから2週間以上も経っていた。流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じる余裕は、この期間の僕にはなかったようだ。

済生会の先生は初診から「手術いつにします?」なんて聞いてきた。それくらいのノリの方が僕も気が楽だ。手術日は4/14、おおよそ一か月後になった。皐月賞は病室から見ることになりそうだ。不健康な場所から見るギャンブルは格別の感情がありそうだ。

この頃には剥離骨折もだいぶ治ってきており、術前リハビリに勤しんだ。まあ、右膝を気にしながらスクワットしたり、スクワットしたり、そんな感じだ。手術後は右脚を動かせないので、左右の筋力差がどうしても生じてしまう。もちろん、怪我をしてから今までも右脚を動かせなかったわけなので、手術をするまでに右脚と左脚の筋肉のバランスを整えておこう、というわけである。

あれよあれよと入院前の健康診断だったり、いろいろな手続きを終えて、4月の最初の週はひとまず東京の実家に帰ってきた。タイヤ交換をしたり、スキーをチューンナップに出したりと、いろいろと用事を済ませたあと、生まれ持った膝の靱帯で、育った街をフラフラと散歩した。運のいいことに野川沿いの桜が満開だった。

桜が咲くよ

次の週も暇だったので東京に戻った。いつの間にか野川沿いの桜は散ってしまっていた。季節の流れは早いし、桜という花は儚いものだ。僕の右膝も、季節の流れと共にいつの間にか治ってしまうとありがたいのだが、なんて思った。

一通り散歩した後、家の近くの神社で神頼みをしてみた。脚をメスで切り開かれることよりも、背中にぶっ刺す硬膜外麻酔の注射に怯えまくっていた。まあ、欲張りな僕は、注射で気絶しないことを祈ったり、手術の無事を祈る、なんてことはしない。30分後に発走となる桜花賞で、本命の穴馬が複勝圏内に来ることを、ただひたすらに祈っていた。

神頼み

今年の桜花賞は圧倒的1番人気のリバティアイランドという馬がえげつない末脚で差し切って勝った。自由の島か。今や僕の前十字靱帯も馬券もどこかの島へ飛んで行って、僕の右膝はフラフラと自由(フリー)状態である。人生も大体1番人気が来て、番狂わせなんてそうそう起きない。何事も堅実に生きた方がいい。切実に。

右膝前十字靭帯損傷・半月板損傷を負って① あの日

2023年2月25日、僕にとって生涯忘れられない日だろう。

僕はこの日、右膝前十字靭帯損傷及び半月板損傷という、なかなか酷い怪我を負ってしまった。とりあえず、まずはこの日のことを話していこうと思う。

僕はこの日、朝から南会津の志津倉山を散策していた。ただ、連日の仕事の疲労で寝坊してしまったので、山頂まで行かずに途中で引き返し、下山してきた。しかし、やはりこういうことをしてしまうと、「物足りない」と思ってしまう。そう思って、近隣の某スキー場に足を運んだ。

昔、スキー場で帰りたくないとごねる自分に、祖母が言葉をかけてくれた。「何事もちょっと物足りないくらいがちょうどいい」と。時折思い出しては心に言い聞かせたりしているのに、なぜこの時はこの言葉を思い出さなかったのだろうと、今はそう思ってしまうのだ。

さて、某スキー場に着いた僕は、いつも通り一番上の急斜面の非圧雪のコースをグルグル回していた。数本滑ってそろそろ休憩しようかな、という一本。疲労感に包まれながらも気持ちよく滑っていた僕はふと上を見た。すると、なんと制御の効かなくなったスノーボーダーが僕めがけて突っ込んでくるではないか。駆け出しの新入社員だというのに、エセ精神病で仕事をサボり始めて会社に来なくなった課内いちばんのベテランの仕事を全て押し付けられていた僕は、如何せん能力が高いおかげでそれなりに膨大な量の仕事をこなしてはいたが、やはり連日の残業と睡眠不足が応えていたようで、一瞬反応が遅れてしまった。

しかし、それでも避けきった。今思えば衝突していればたんまりお金でも貰っていたのだろうかと下衆な想像をしたりもするが、最悪の事態になっていた可能性も拭えない。とりあえず避けきることができてよかったとは思っている。

ただ、避けきった瞬間に、僕の右膝から文字通りの「ボキッ」という音がして、刹那、膝が抜けてものすごい勢いで転倒してしまった。正直、この時点で、「前十字靭帯」の五文字が頭をよぎっていたのだが、ひとまず考えないようにした。

スノーボーダーは僕がうずくまっているうちにどこかへ消えてしまったようだ。大方僕の方が悪いとでも思ったのだろうが、ゲレンデでは上にいる人間が板を制御するのが暗黙の了解だし、そもそも板を制御できない未熟な状態で上級コースに入ること自体が間違っている。という理屈は抜きにしても、この件でスノーボーダーは極めて感覚的な理由で大嫌いになった。まあ、ただの偏見なのだが。

とりあえず起き上がって、下を目指すことにする。幸い、アドレナリンがドバドバ出ていたのか知らないが、なぜか滑ることができた。何度か転倒しかけたが下まで滑り切り、車に戻って病院に向かうことにした。しかしここは会津の奥地、休日ということもあって近隣にあいてる整形外科など当然無く、宇都宮まで忍耐のドライブを強いられそうだ。

車に乗り込むとアドレナリンが切れたのか、右膝の違和感がだんだんと強くなってきた。レヴォーグのアイサイトをフル活用して、なんとか宇都宮に舞い戻る。

休日でもやってる整形外科が一軒あり、そこでレントゲンをとってもらうと「右膝の剥離骨折」とのことだった。先生曰く、靱帯の状態はMRIを撮らないと分からないらしい。なんとなく先生の口ぶりから嫌な予感が漂っているのはわかっていたが、「剥離骨折なら二週間で治るだろ」と高を括ることにした。ただ、右脚はボンレスハム状態となった。なんとなくタンパク質が摂りたくなって、この日の夜はボンレスハムを眺めながらハムエッグを食した。

ボンレスハム