穴だらけの沢靴の踵を目いっぱい伸ばしながら履き、水流の中で黒光りする礫石を踏みしめる。目線を上げればブナの森に包まれた緑の回廊が広がり、轟音をあげて白い飛沫を散らす水の世界がある。足の指の隙間に潜り込む水流にわずかな解放感を覚え、身一つで滝を登り、淵をへつる。全身の感覚を研ぎ澄まし、水の流れと対話するようにして頂を目指す。それは紛れもなく「沢登り」である。そして、それらに興じる人間は総じて「沢ヤ」と呼ばれる。
しかし、僕は頑なに首を横に振る。僕は沢ヤではない。
誤解を恐れずに言えば、僕は「沢」そのものに取り憑かれているわけではない。濡れ鼠になりながら地形図上の水線を辿り、難所の突破に歓喜する…そうした純粋な沢登りの技術や、登攀そのものを目的にしているかと問われれば、答えは否となる。
僕が惹かれているのは、あくまで一つの「山」であり、山が描き出す全貌にほかならない。ある時は急峻な岩壁を直登し、ある時は冬の冷気の中で凍てついた雪稜を辿る。ある時は谷を突き詰め、ある時は森を縫い、最終的にその山の頂へと至る。いや、頂に辿り着かなくても良い。僕にとって沢登りとは、山という巨大な対象を立体として味わい尽くすための、きわめて自然な道筋の一つに過ぎない。
地図を広げ、そこに広がる世界に想いを馳せる時、僕の頭にあるのは「どれだけ手強い沢を攻略するか」ではなく、「この流れの果てに、あの山はどのような顔をして佇んでいるのだろうか」という純粋な問いだ。ゴルジュを突破することや滝を直登することは、合理的な道筋を辿るためのアプローチに過ぎず、ひとつの通過儀礼のようなものだ。
僕にとって山登りとは、その山が抱く歴史や地形、そして自然の営みそのものに身を浸す、一種の文化的な営みであり、個人的な表現なのだと思い込んでいる。自然と一体となり、ひとつの生命体として山中を漂う。原始的な登山を追い求めるために、地形図に限りなく合理的な線を引く。そこに宿る静かな美学を感じていたい。
だが、今シーズンを振り返ると、僕はいつの間にか「沢ヤ」の物真似をしていた。決して世間一般的なイメージの枠組みにある「沢ヤ」に宣戦布告をしたいわけではないことを付け加えておきたい。困難そのものを目的とするのではなく、山との対話を主眼に置いていたはずの自分が、いつしか目先の達成感に引っ張られてしまっていた…そのことへの微かな反省がある、ということだ。地形図に合理的なラインを引く。山中を野生的に漂い、予定調和に抗う。山行を終えた時、結果的に地形の中で美しい軌跡を描けているのであれば尚良い。他者の評価軸やジャンルのラベルではなく、自分の足の裏と地形図が純粋に結びついているか。そこに立ち返りたかったのだ。
渓を登り、山を愛する。だが、ジャンルや肩書としての「沢ヤ」という枠組みには、どうしても収まりたくない自分がいる。あくまで「山ヤ」でありたいのだ。
今年も雪の季節がやってくる。
さあ、衣替えをしようか。


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