2026/10/1(木)~3(土)
メンバー:ゴリラ、JOHSON
豪壮な渓谷が立ち並ぶ飯豊の本流域において、比較的遡行しやすいのが前川であろう。山域の盟主である飯豊本山の南面を流れ、本流であるビンカガグチ沢は、本山の嫋やかな草原に突き上げている。明るく開けた花崗岩の渓で構成されており、厳しい飯豊の沢でありながら華やかな印象を感じさせられる。弥平四郎から登山道を上がり、松ノ木穴沢を下降することにより、その中核に容易に達することができる。切合小屋から上追流沢を下降し、源流域だけを摘み食いすることもできるだろう。
近年の飯豊連峰の登攀史を語る上で、決して欠かすことのできない名前がある。故・長島孝幸氏だ。2011年以降、同氏は凄まじいペースで飯豊の沢に通いつめ、本流から末端の支沢に至るまで、ほぼ全ての流域に鮮烈な足跡を刻み込んだ。そして2020年10月、玉川文覚沢にて帰らぬ人となった。飯豊の沢を愛し、その飯豊の沢に散った長島氏の軌跡は、彼のブログである『飯豊連峰~四方沢の旅』に極めてクールに、そして詳細に記されている。
そんな長島氏が、自身の初となる飯豊の本流遡行に選んだのが、前川の本流・ビンカガグチ沢だった。長島氏は、前川を遡行した当時の心境をこう綴っている。
飯豊連峰での最初の本流遡行は実川(前川)にしたいと以前から考えていた。前川という名称と、飯豊山に突き上げる流程とから、勝手ながら表玄関のような印象を抱いていた。その表玄関から飯豊の沢に踏み込んでみたかったのだ。
この一文に出会ってからというもの、僕の中でも前川という流域は、いつしか飯豊の「表玄関」という絶対的なイメージとして焼き付いている。飯豊という偉大な山域に敬意を払い、真摯に向き合うならば、やはりその表玄関から堂々と扉を叩くべきなのだろう。
しかし、あいにく僕は、筋金入りの天邪鬼な男だ。
今年の8月に、玉川大又沢御秘所沢から本山へと登り詰めた。次はやはり、連峰最高峰である大日岳だろう。近年は記録の稀な牛ヶ首沢を経由し、大日岳へ至る。そんな魅力的なラインを選べば、きっと僕のしょうもない自己顕示欲も満たされるはずだ。
直前になって天気予報を見ると、どうやら寒気が下りてくるようで、2日目、3日目の最高気温は5度とのことだった。寒さに凍えることは容易に想像できるが、飯豊への憧れが勝った。信頼できる心強いパートナーと共に、正面から飯豊の門戸を叩く。そこに広がる雄大な渓相の先に、僕たちだけの濃厚な物語が待っているはずだ。
【10/1】
弥平四郎より入山。ブナが美しい登山道を軽快に登り、上ノ越から松ノ木穴沢へと下降する。松ノ木穴沢は多少のヌメリはあるものの、特に困難なところはなく、下降向きだ。視線を上げれば、目の前には秋色に染まった大日岳が爽やかに聳え、入り鳥ノ子沢の連爆帯を携えている。
降り立った前川本流は、どこまでも大きく明るい。

ウエットスーツ(ブラックメタリックス)に身を包み、いざ遡行開始だ。歩き出してわずか1分でさっそく泳ぎが入り、程なくして右岸から入り鳥ノ子沢が出合う。2m滝を泳いでから左の岩壁を攀じる。想定していたとはいえ水温はそれなりに低く、早くもブラックメタリックス様様な展開だ。

ブラックメタリックスの締め付けに慣れず、少し動き辛さを感じながらも、へつりと泳ぎを交えながら明るい谷を進み、下追流沢の出合で小休止を挟む。

ここから先は側壁が立ち上がり、いよいよゴルジュの様相を呈してくる。
ヌリカベのような1m滝は、左壁を空荷&ショルダーで突破。続く魚止の連爆は、左岸から一気に高巻く。



しばしゴーロを歩くと、本流と牛ヶ首沢の出合に到着した。本流には15m滝(虹吹の滝)がかかり、これから僕らが進む牛ヶ首沢の入口は引き締まったゴルジュになっている。

少し戻ったところにある快適な砂地に幕を張り、焚き火を起して初日の夜をしっとりと迎えた。夜は少し雨が降ったが、増水には至らなかった。
【10/2】
7時に出る。幸いにも青空が広がっている。天気予報はいい方向に外れてくれた。
出合からすぐのゴルジュに架かる6m滝は右岸のルンゼから高巻く。続く7m滝を左岸の巨岩の隙間から越えると、目の前に狭いゴルジュが立ちはだかった。手前に8m、奥に15m程度の滝が牙を剥いている。見るからに絶望的な様相を呈している。左岸から大きく高巻くことにする。この2つの滝の間で、黒羽根沢が悪そうなゴルジュを従えて出合っていた。傾斜の緩い草付きを見極め、沢へと復帰する。







藪漕ぎの暑さに耐えかねてブラックメタリックスを脱ぎ捨てる…が、脱いでからものの3分でまたしても冷たい水の中へ泳がされる。水が冷たすぎる。だが、それ以上に渓相が良すぎて、カメラのシャッターを切る手が止まらない。


少し進むと、巨大な雪渓がゴルジュを丸呑みするように塞いでいた。腹の底に響くような不気味な崩壊音に怖気づく。雪渓の上へ乗り移ることはできず、右岸の支流から高巻いてやり過ごす。雪渓の先で懸垂下降を交え、再び沢へと降り立つ。


豪快に水を跳ね飛ばす10m滝を越え、雪渓のブロックがゴロゴロと転がる河原を進んでいく。


2段15m滝を右岸から高巻いていると、御西沢と東大日沢の出合が見えてきた。当初の計画では大日岳を目指して左の東大日沢を詰めるはずだったが、本流である右の御西沢が、あまりにも色気ムンムンで僕らを誘惑している。


「いやあ、迷うなあ」「これは御西沢が良すぎます、御西沢にしましょう」「見るからに良いですもん」「こんなこと初めてですよ」とゴリラが言う。
こうして、僕らはすっかり御西沢の艶やかな魅力に連れ込まれていった。

滝を2つ軽くいなすと、第1ゴルジュの入口に15m滝が現れる。右岸から容易に高巻き、そのままゴルジュの懐へ。特に嫌らしい悪場はない。





その先には明るい小滝が連なり、間髪入れずに第2ゴルジュへと突入。こちらも快適に突破するが、相変わらず渓相が美しすぎて、やっぱりカメラが止まらない。




しかし、この辺りから風向きが怪しくなり、冷たい雨が降り始めた。寒気の影響が出てきたようだ。
急激に体温が奪われていく寒さに耐えかねて、一気に御西小屋まで詰め上げることを決意。2段18m滝は、上段をゴリラのリードでサクッと抜ける。あまりの寒さに、ふたたびブラックメタリックスを着用する。



この先は特に悪場はなく、ただひたすらに詰め上がるだけなのだが、如何せん寒すぎる。途中の5m滝で容赦なくシャワーを浴びせさせられ、完全に戦意喪失。稜線直下の草原は、晴れていればさぞ楽園だろうが、ガスで殺風景で、ただひたすらに寒い。あまりの寒さで両太腿と両ふくらはぎがピキピキと攣りだし、まるで壊れたロボットのような奇妙なムーブで這い上がる。もはやブラックメタリックスすら貫通してくるほどの寒さだった。

ちなみに、ゴリラは終始、芍薬甘草湯のことを「556番」と呼び続けていた。いや、それクレ556だからね…。
震えながら御西小屋に課金(エイド)し、温かな小屋の中へ滑り込む。

夕飯の支度をしていると、隣の優しいオッチャンが余った食材を気前よく分けてくださり、豪華なキムチ鍋に舌鼓を打ちながら身も心も温めて就寝した。
【10/3】
朝、目を覚ましてトイレへ向かうと、強風が吹き荒れていてクッソ寒い。外気温は1度らしい。おいおい、冗談だろ…。小屋はエイドだが、昨晩外でビバークしていたら、悲惨なことになっていたかもしれない。

小屋のノートをめくっていると、長島氏の書き込みを見つけた。
それは2018年10月に、入り鳥ノ子沢、黒羽根沢、御西沢、豊実沢の継続遡行・下降を行った際の記録だった。あの記録の隅々にまで宿る、どこまでもクールな長島氏の足跡。その本人が、この小屋のノートにペンを走らせていた当時の感情に思いを馳せると、胸の奥が熱く焦がされるような感覚に包まれた。
温かいラーメンを流し込み、小屋をあとにする。本山までは強風で吹きさらしだ。「バラクラバ付けていいですか」「おい!それチートグッズだろ!」なんてアホな会話を交わしながら、一歩一歩進んでいく。

本山小屋でお菓子を頬張りながら小休止していると、嘘のようにガスが晴れてきた。
御秘所の岩場に差しかかる頃には完全に青空が広がり、視界いっぱいに広がる紅葉に彩られた飯豊の山々が目に飛び込んでくる。なんて素晴らしいんだ!
最高に気持ちいいハイキングだ。こんなゴリラ野郎とではなく、女の子と来るべきだろう、と心の底から思いつつ足を進める。まあ、ゴリラも同じことを思っていたに違いない。



三国岳のあたりまで下るともはや暑い。一応、貧弱な防寒着をすべて着込んで防寒していたのだが、結局はアンダーシャツ1枚になった。上ノ越から再び美しいブナの森を噛み締めるように歩き、心地よい疲労感に全身を包まれながら、無事に弥平四郎へと帰還した。


沢を初めて間もない頃、カモシカスポーツの書籍売り場で『朝日・飯豊連峰の沢』をぼんやりと立ち読みした日のことを思い出す。あれが「飯豊の沢」という情報に触れた、最初の瞬間だった。
あの頃の僕にとって、飯豊の沢は途方もなく深く、遠く、そしてとてつもなく困難な世界に思えた。そこに自分が立っている姿など、想像の枠組みのどこを探しても見当たらなかった。
だが、僕は確かにあの飯豊の大渓谷の中にいた。
そして今も、またあの偉大なる飯豊の大渓谷へ、一刻も早く足を運びたいと思っている。
胎内川、飯豊川、長走川、そして裏川……。飯豊の山々は、あまりにも懐が深すぎる。それでも、いまの僕なら、飯豊の途方もない大渓谷の中にいる自分の姿を、ほんの少しだけ想像することができる。
やがて白銀の雪が峰々を覆う頃、ふたたび母なる飯豊が、あの冷たくも優しい表情で僕に微笑んでくれることを願いながら、僕の飯豊の沢のルーキーシーズンの幕を閉じよう。

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